2012年12月18日火曜日
歩く会
家の近所のお店で働くエマから、ウォーキングに誘われた。地元のウォーキンググループの人たちは健脚だろうから、私はしばらく遠慮していた。が、ついに「大丈夫、10キロ以内だから、お昼食べて解散よ」と言われ、恐る恐る参加した。
我が家の近くのジョハナビーチから7-8キロかけてミラネシアビーチまで約3時間半、最後にランチをして午後2時前に解散。少し急坂とかあったが、何とかみんなについていけた。
今回はエマを筆頭に、常連のアリスタとジュリー夫妻、娘のアリサを背負子に背負ってきたリンゼー、そして私とMon mari。ジョハナビーチを背にしてワンショット。
少し離れた小高い丘から見るジョハナビーチは壮観。
途中でみつけた「Knowledge Track (知識の小道)」という粋な名前の道。
いいよね、こんな住所に住むなんてかっこいい、と皆で羨望。もし次に家を建てるならここだな、という冗談話まで出た。
さらに歩いていくと、ある家の前に不思議な人形がある家をみつけた。
そこのオーナーのブライアンは人形を作るのが趣味とか。蝋人形ではなく、石などの固いもので顔を作って胴体は木やわらを使っている。
みんなでブライアンと歓談。彼の家の庭や人形づくりの作業場を見せてもらい、Mon mari のバイクどころでない趣味の深さとこだわりに驚く。
実はブライアンと、アリスタ夫婦は60年代にオーストラリアに来た「ワンパウンド・ポム」という英国人。当時、オーストラリアは技術者が不足していたので、1ポンド払えば、英国人がオーストラリアに移住できます(交通費は豪政府負担)、というふれこみでさまざまな分野の技術者の受け入れプログラムがあって、それを1ポンドポム(ポムは英国人の意味)と言ったそうだ。ブライアンは60年代半ばだったので船で、アリスタ夫妻は飛行機でオーストラリアに入国した最初の1ポンド英国人そうだ。そんな懐かしい思い出話も盛り上がった。
アリサはさすがに背負子に飽きてしまい、ついに歩き回った。
地域散策にはとてもよいウォーキングだった。人々の生活なども垣間見られる
次のウォーキングは2月に開催とか。何とか少し体を鍛えて頑張って参加してみよう・・・
2012年12月13日木曜日
うちの研究室
最近モナッシュ大学の研究室で非常勤研究員として働き始めた。
メルボルン大学のウィメンズヘルスで学んだ時の先生方がモナッシュに移り、研究ユニットを立ち上げたので、大好きな先生を慕ってダメもとで門を叩いたら、一緒に働きましょうというまたとない有難いお返事をいただいた。
先日、「戦略ミーティング」たるものが、郊外のビーチハウスを所有しているカリンの家で開かれた。総勢14人。先生はオージー、南ア、スェーデン人で、その他、アジアからの短期研究生と博士課程の学生。皆、興味深いテーマで研究している。オーストラリアの女性に関する研究が多いが、最近は途上国や異文化研究も進めている。スェーデン人のカリン先生は、「貧困国の不妊症の女性に対する差別と暴力」について論文を書き上げて近々出版されるとか。興味深いので、ぜひ読ませてもらいたいと思った。
ウィメンズヘルスというとまさに女の城。でも一人だけ、ベトナムから来た博士課程に在籍する男性がいる。女性の健康は女性だけの問題でなく、男性も学ぶことは性差医療への理解をさらに深める。特に途上国の男性が学ぶことは意義深いと思う。黒一点でも彼はものおじなく、女性の中に自然に溶け込んで歓談しているのが不思議。頑張って、博士を終えてほしい。
このミーティングで話された内容の一つ。
「来年はユニット(個人単位は別)で、論文を2か月に一本は書くように目標を定めましょう!」 。
先生たちの論文の数には圧倒される。所長のCVは50ページにも及ぶ。学者とはすごいものである。私のCVなどは恥ずかしくて廃棄処分にしたいほど。
私も先生たちの足元に少しでも近づけるように来年はがんばろう。
2012年12月5日水曜日
おめでとう!
親友のキースとリンダの家にしばらく下宿していたフィリピーナのノナリサとチェリー。
彼女たちはメルボルン大学の修士課程で学び、このたび晴れて卒業となった。
そのお祝いにリンダがパーティを開き、私たちと仲間のヒューイと奥さんのジュー(マドゥラ人)が呼ばれた。
ノナリサ(左の真ん中)は人材開発の分野、チェリー(左最前)は教育学を専攻。
二人とも、AusAID(オーストラリア国際開発庁)からの奨学金で学んでいた。AusAIDはアジア太平洋地域から多くの修士や博士の学生を招聘している。
奨学金は基本的には開発に従事する人材を養成し、本国に貢献することを目的としているが、驚いたことにノナリサたちによると、AusAIDから奨学金を受けた学生は卒業後2年間はオーストラリアに入国できないのだそうだ。つまりオーストラリアで学んだ後にオーストラリアに居住したり職を得ることを阻止する政策なのだ。欧米で学ぶと拍づけになり本国に戻らず海外に留まって就職を希望する者が多くなるため、本国への貢献にならず、頭脳流出という皮肉な結果をもたらす。
このような事にならぬよう、学んだあとはきちんと自分の国に戻り地域のために働きなさい(少なくとも2年は)という意味が含まれている交換条件なのだ。
ノナリサとチェリーはフィリピンに帰って元の職場に復帰することを楽しみにしている。 でもチェリーは娘がオーストラリアに住んでいるので、いづれはこちらに戻ってきたいという本音もちらっと漏らしていた。
2012年12月1日土曜日
やったね!
Mon mari のバイク狂いについては何度もブログで書いたが、およそ13-14台はあるクラシック・バイクはいつも倉庫に眠っている。なにせ、ほとんどオンボロなのでいつもしこしこ修理したり部品を変えたりして少なくともエンジンは動くように試している。
さすがに宝の持ち腐れとなっていると自覚しているのか、バイクを走らせたくなったようだ。ただし、クラシックなので、車検を通してナンバープレートをもらわないと一般の路上は走行できない。なので、それができない場合は、レース場に持って行って、レースに参加するか、もしくは練習のコースに参加して機械と自分の腕試しをするしかない。
実は2-3か月前に練習コースに参加したのだが、いざ練習を始めようとしてレザーのつなぎを着たらあまりにもきつくてお腹のあたりのジッパーが壊れてしまった。このため練習コースには参加できず、恥ずかしながらも主催者から参加料を返金してくれたとか・・・
今回はレザーが着れるようにちゃんと調整し(少しのダイエットと、レザーを若干伸ばした)たので、何とかクリアできた。
バイクを置いて、準備する車庫。Mon mari は2台、持ち込んだ。
家族連れも多い。サイドカー(二人乗りのバイクカー)で遊ぶ子どもたち。
さて、いざ出陣。
何とかエンジンもスタートして、恐る恐る発進。何とかスタートラインは過ぎたが、トラックを5-6周くらいするものの、途中でエンコしないか冷や冷や。
なんと今回は問題なく完走。ごきげんで戻ってきた。
今回の練習で自信がついたのか、1月の中旬の練習レースにも行くと言い出した。付き合うこちらは大変である。
持ってきたバイクを再びトレイラーに積んで、家路に向かう。
まったく、なんと大騒ぎな趣味なことか・・・
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