昨日、コミュニティの防災集会に参加してきた。
私自身、住民参加というのは、途上国のプロジェクトの中で、こちらが主催する立場で、集会に住民を呼び寄せ、外側の人間として傍聴や観察をしたことがあるが、自分が当事者になる住民集会というのは多分、初めてである。
集会の前に、バーベキュー、と言ってもハンバーガーとホットドック、紅茶、コーヒーなどが配られた。こうやって住民の集まりで人々をもてなすというしきたりは古今東西、万国共通なのだ。
私の住む地域の一帯は牧草地、山林が多く、油脂分を多く含み揮発性の高いユーカリの木がほとんどなので、山火事は深刻な問題なのである。隣の町は標高が高いこともあって、山火事が起こると火は上に昇りやすく、危険地帯とも言われている。今までは市の防災委員会のマニュアルに沿った防災システムがあったが、コミュニティに応じたハンドメイドの防災対策をきちんと作ろうということになった。
主催はコミュニティの防災委員会。1時間ほど車で走って行く行政管理市(いわゆる市役所のある町)の防災担当者、市警察、村の警察と地域の防災委員、防災ボランティアなど総勢10人近くが壇上に上がり、70-80名の住民から様々な質疑応答を受け、白熱した話し合いが続いた。
オーストラリアでは火事の危険度を示す、オレンジ・デー、レッド・デーというのがあるが、住民はいつの時点で避難するのか、を問いていた。下手に動くより留まるほうが賢いのではないか、など色々な意見が出された。火事にはなってないが、警報が出たら逃げるか、という問いへの答えは難しかった。逃げることが必ずしも安全でない、逃げる途中で火の粉が飛んできたり、火で焼け落ちた木々に行く手と来た道を阻まれ焼け死ぬということもある、そして道路の渋滞で結局逃げ切れないこともある、などなど。
警察や消防によると、火事の動きは複雑で風向きも一定しないため、予想することが難しいそうだ。なので、1つや2つのパターンで避難方法をつくるわけには行かないため、皆でブレインストームしていくつかのシナリオを作ってそれにあわせた防災、避難方法を作ることになった。
オーストラリアはもう春の初め。11月からは庭の焚き火は禁止。
夏はすぐそこまで来ている。
2011年9月30日金曜日
2011年9月23日金曜日
旗とアイデンティティ
メルボルン郊外にあるスインバン大学で、日本とオーストラリアの援助に関するワークショップがあり、日本のNGO代表として招かれた。オーガナイズした大学の先生によると、在豪のスポンサー財団との関係でキャンパスのど真ん中に日本の旗を立てることになったそうだ。
オープニング・スピーチに領事館の主席領事がいらして話すとはいえ、ここまでやるか・・・と思ってしまった。日の丸の左横にはオーストラリアの旗が、そして右にある黒、赤、黄色のはアボリジニーの旗である。
私は先生に「複雑な思いだわ、海外では日本の旗で顔の見える援助を示すのが日本政府の方針なんだけど、私はそういうのに抵抗があるの・・・」と冗談ながら言ったら、 「おもしろい指摘ね。あなたの気持ちはよくわかるけど、色々プロトコールというのがあってね・・・」と語っていた。
旗の意味って何なのだろう・・・
正直なところ、私は旗だけを見て愛国心はあまり涌かない。
日本人が内外で活躍している姿を見たり、日本製品のすばらしさを体感すると、愛国心というか、日本人としての誇りの気持ちが高まる。
たった今、ワールド・カップ・ラグビーを見ている。米国対オーストラリア。国旗掲揚して国家を歌うとき、米国人は全員胸に手をあてて高らかに歌っているが、オージーは肩を組み合って、高らかに歌う者、もごもごして歌っている者、そしてうなずきながらほとんど歌っていない者がいる。愛国心の表し方は国や人々によって違うのがよくわかる。
オーストラリアのアボリジニー。今はアボリジニーと呼んではいけないそうだ。「オーストラリア先住民」というのが正式な呼び名だそうだ。
彼らは今でも自分たちの国旗と議会を主張している。
首都のキャンベラに行くと、国会議事堂のまん前に、わらと木で作られた小さな建物がある(上の写真の真ん中)。これはオーストラリア先住民たちの議会で、彼らは今でも自治を主張している。奪われた大地と権利を奪回したいと考えているそうだ。オーストラリア政府はこの建物を撤去することなく、長い間にわたり黙認している。
この5-6年くらい前からの傾向だが、オーストラリアの主要人物のスピーチには必ず、「この大地を与えて下さった先住民たちに感謝をします」という枕詞が必ずつけられるようになった。21世紀になってやっと先住民の存在が少しずつ認められているようだ。長らく追いやられてきた人たちは旗にこだわり、政治的な権利を求め、自分たちのアイデンティティをあらためて訴え始めている。
それは私たちがスポーツの中で旗や国歌から感じる愛国心とは全く違うものなのだと思う。
2011年9月17日土曜日
驚くべし、猫たちよ!
友人と神楽坂のカフェに行く。カプチーノを頼んだら、なんと猫の絵をしたミルクフォームが出てきて、大感激。こんな技はオーストラリアや他の国では絶対にない。つくづく、日本人の器用さ、そしてサービス精神に脱帽。
次の日、姉の家に遊びにいった。外食してから家に戻ると二階の窓から、モモちゃんが主を待って、飾り窓の猫をしていた。なんとも可愛いと思って、写真を撮ったら何故か目だけが光るすごい猫になってしまい、みんなで大爆笑。本当はもっと美人なんだけど、これだと夜ふくろうみたいだね・・・
次の日、姉の家に遊びにいった。外食してから家に戻ると二階の窓から、モモちゃんが主を待って、飾り窓の猫をしていた。なんとも可愛いと思って、写真を撮ったら何故か目だけが光るすごい猫になってしまい、みんなで大爆笑。本当はもっと美人なんだけど、これだと夜ふくろうみたいだね・・・
2011年9月15日木曜日
考えさせられた瞬間
日本に2週間ほど滞在中。その間に仙台近郊の被災地を訪問した。海外にいて何も知らなかった私。何かできるわけではないが、この災害をこの目で見て焼き付けておきたかった。
国際協力のNGOで活動している友人を訪ね、彼らの活動に同行する形で、七ヶ浜、松島、東松島、石巻を駆け足で回った。
七ヶ浜では、レスキューストックヤードという国内の災害を支援している名古屋ベースのNGOを訪問。災害ボランティアの受け入れなどの支援をしているが、地域の社会福祉協議会との協働の難しさなど苦労話をたくさん聞いた。震災後、6ヶ月経って、やっと地域での調整が少しずつ機能し始めているそうだ。
東松島方面に向かったところで立ち寄った中学校。災害の爪あとがまだ多く残っている。
津波が来た瞬間の午後3時48分で時計は止まっている。
音楽室の楽器や教材も大量に流されて、無残にもがれきの山の中に埋もれている。
東松島の小学校。津波は来たが、校舎の損傷はそれほど大きくないがここでも悲劇は起きた。
小学校の横にある体育館。地震直後、住民は学校に避難させて欲しいとやってきた。校長は校舎に入って来られるのはこまるので、体育館に入って欲しいと言った。まもなく、津波が押し寄せ、子どもたちは校舎の上に避難したが、多くの住民たちは全員体育館から流されて死亡した。もし校舎の上に避難させていれば、全員助かったのだ。まさか、あのような大きな津波が来るとは誰も予想できなかったので、誰も責められないのだが、校長はその後、村民に土下座をして謝ったそうだ。
石巻でポツンと残された家の半分。ほとんどの家は土台だけ残して流されてしまった。今は草がぼうぼうと生い茂っている。
ここもポツンと家がが一軒建っているが、なぜか落書き(か?)と思われる絵が描かれている。話を聞くと、ここの家の住民は津波が来たときにとっさに屋根の上に登って命が助かった。他の家は屋根が平らではないので逃げようがなかった。家の中のものは全て流されたが、自分を救ってくれたこの家を忘れることができなかった。そこでこの人は社会福祉協議会に行って、この家に感謝を表したいので、ボランティアの人に家に絵を描いて欲しい、と頼んだが、社協はそんなことにボランティアをつかえない、と拒否した。これを聞いたボランティアの人たちは「こんな時だからこそ、このような人たちの思いに応えよう」、ということで、社協とは関係なく、純粋なボランティア精神をもつ人たちがやって来て、可愛い花の絵柄のペイントをしてくれたそうだ。こんな荒涼とした場所で、このようにほっと心なごむ建物があるので、隠れた名所になっているようだ。
石巻の丘の上から見た向かい側の様子。真ん中に、がれきの堆積場がある。ここから最終のがれき処理場に持っていかれるのだが、まだどこになるかが決まっていないので、当面はここにおかれるよう。
災害の爪あとは本当に深かった。阪神淡路ですら復興に10年近くかかっているので、東北は20年くらいかかるかもしれない。見ていて辛い場面がたくさんあったが、それでも人々はいつものように生活し、前に進んでいるように見えたが、心の中の傷はそんな簡単に消えることはないだろう。この災害を絶対に忘れてはならないと心から思った旅だった。
国際協力のNGOで活動している友人を訪ね、彼らの活動に同行する形で、七ヶ浜、松島、東松島、石巻を駆け足で回った。
七ヶ浜では、レスキューストックヤードという国内の災害を支援している名古屋ベースのNGOを訪問。災害ボランティアの受け入れなどの支援をしているが、地域の社会福祉協議会との協働の難しさなど苦労話をたくさん聞いた。震災後、6ヶ月経って、やっと地域での調整が少しずつ機能し始めているそうだ。
東松島方面に向かったところで立ち寄った中学校。災害の爪あとがまだ多く残っている。
津波が来た瞬間の午後3時48分で時計は止まっている。
音楽室の楽器や教材も大量に流されて、無残にもがれきの山の中に埋もれている。
東松島の小学校。津波は来たが、校舎の損傷はそれほど大きくないがここでも悲劇は起きた。
小学校の横にある体育館。地震直後、住民は学校に避難させて欲しいとやってきた。校長は校舎に入って来られるのはこまるので、体育館に入って欲しいと言った。まもなく、津波が押し寄せ、子どもたちは校舎の上に避難したが、多くの住民たちは全員体育館から流されて死亡した。もし校舎の上に避難させていれば、全員助かったのだ。まさか、あのような大きな津波が来るとは誰も予想できなかったので、誰も責められないのだが、校長はその後、村民に土下座をして謝ったそうだ。
石巻でポツンと残された家の半分。ほとんどの家は土台だけ残して流されてしまった。今は草がぼうぼうと生い茂っている。
ここもポツンと家がが一軒建っているが、なぜか落書き(か?)と思われる絵が描かれている。話を聞くと、ここの家の住民は津波が来たときにとっさに屋根の上に登って命が助かった。他の家は屋根が平らではないので逃げようがなかった。家の中のものは全て流されたが、自分を救ってくれたこの家を忘れることができなかった。そこでこの人は社会福祉協議会に行って、この家に感謝を表したいので、ボランティアの人に家に絵を描いて欲しい、と頼んだが、社協はそんなことにボランティアをつかえない、と拒否した。これを聞いたボランティアの人たちは「こんな時だからこそ、このような人たちの思いに応えよう」、ということで、社協とは関係なく、純粋なボランティア精神をもつ人たちがやって来て、可愛い花の絵柄のペイントをしてくれたそうだ。こんな荒涼とした場所で、このようにほっと心なごむ建物があるので、隠れた名所になっているようだ。
石巻の丘の上から見た向かい側の様子。真ん中に、がれきの堆積場がある。ここから最終のがれき処理場に持っていかれるのだが、まだどこになるかが決まっていないので、当面はここにおかれるよう。
災害の爪あとは本当に深かった。阪神淡路ですら復興に10年近くかかっているので、東北は20年くらいかかるかもしれない。見ていて辛い場面がたくさんあったが、それでも人々はいつものように生活し、前に進んでいるように見えたが、心の中の傷はそんな簡単に消えることはないだろう。この災害を絶対に忘れてはならないと心から思った旅だった。
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