日本に2週間ほど滞在中。その間に仙台近郊の被災地を訪問した。海外にいて何も知らなかった私。何かできるわけではないが、この災害をこの目で見て焼き付けておきたかった。
国際協力のNGOで活動している友人を訪ね、彼らの活動に同行する形で、七ヶ浜、松島、東松島、石巻を駆け足で回った。
七ヶ浜では、レスキューストックヤードという国内の災害を支援している名古屋ベースのNGOを訪問。災害ボランティアの受け入れなどの支援をしているが、地域の社会福祉協議会との協働の難しさなど苦労話をたくさん聞いた。震災後、6ヶ月経って、やっと地域での調整が少しずつ機能し始めているそうだ。
東松島方面に向かったところで立ち寄った中学校。災害の爪あとがまだ多く残っている。
津波が来た瞬間の午後3時48分で時計は止まっている。
音楽室の楽器や教材も大量に流されて、無残にもがれきの山の中に埋もれている。
東松島の小学校。津波は来たが、校舎の損傷はそれほど大きくないがここでも悲劇は起きた。
小学校の横にある体育館。地震直後、住民は学校に避難させて欲しいとやってきた。校長は校舎に入って来られるのはこまるので、体育館に入って欲しいと言った。まもなく、津波が押し寄せ、子どもたちは校舎の上に避難したが、多くの住民たちは全員体育館から流されて死亡した。もし校舎の上に避難させていれば、全員助かったのだ。まさか、あのような大きな津波が来るとは誰も予想できなかったので、誰も責められないのだが、校長はその後、村民に土下座をして謝ったそうだ。
石巻でポツンと残された家の半分。ほとんどの家は土台だけ残して流されてしまった。今は草がぼうぼうと生い茂っている。
ここもポツンと家がが一軒建っているが、なぜか落書き(か?)と思われる絵が描かれている。話を聞くと、ここの家の住民は津波が来たときにとっさに屋根の上に登って命が助かった。他の家は屋根が平らではないので逃げようがなかった。家の中のものは全て流されたが、自分を救ってくれたこの家を忘れることができなかった。そこでこの人は社会福祉協議会に行って、この家に感謝を表したいので、ボランティアの人に家に絵を描いて欲しい、と頼んだが、社協はそんなことにボランティアをつかえない、と拒否した。これを聞いたボランティアの人たちは「こんな時だからこそ、このような人たちの思いに応えよう」、ということで、社協とは関係なく、純粋なボランティア精神をもつ人たちがやって来て、可愛い花の絵柄のペイントをしてくれたそうだ。こんな荒涼とした場所で、このようにほっと心なごむ建物があるので、隠れた名所になっているようだ。
石巻の丘の上から見た向かい側の様子。真ん中に、がれきの堆積場がある。ここから最終のがれき処理場に持っていかれるのだが、まだどこになるかが決まっていないので、当面はここにおかれるよう。
災害の爪あとは本当に深かった。阪神淡路ですら復興に10年近くかかっているので、東北は20年くらいかかるかもしれない。見ていて辛い場面がたくさんあったが、それでも人々はいつものように生活し、前に進んでいるように見えたが、心の中の傷はそんな簡単に消えることはないだろう。この災害を絶対に忘れてはならないと心から思った旅だった。